草木も眠る
丑三つ時。
洗面台に
女がひとり。目を爛爛と輝かせながら、いや、焦りで
血走っているというべきか。
きゅきゅきゅっ。水道の蛇口を勢いよくひねる。
じゃあっーとほとばしるお湯を右手で
受けながら、左手で
慌てて栓をする。湯がたまるわずかな時間さえ、もどかしい。
手首がつかるくらいまで湯がたまると、静かに蛇口をひねって水をとめた。
ぽとんぽとん。滴が一滴。もう一滴。水面に広がっていく同心円形の波紋。女は
じっとそれを見つめながら、自分の心に広がる「焦り」という
波を、必死に
抑えているかのようであった。手首まで湯に浸しながら、ただ
じっと時の流れていくのを
待つしかなかったのだ。
どのくらい時間が
経ったのだろう。波紋に魅入っていた女の瞳が、突如、
カシャンと動き始めた。まるで、湯の中に沈んだ右手に
焦点が合ったかのように。
シャカシャカシャカシャカ。ギュッギュッギュッ。ゴシゴシゴシ。濡れたままの髪を気にすることもなく。右手から
何かを
引きはがそうとする。
シャカシャカシャカシャカ。ギュッギュッギュッ。ゴシゴシゴシ。鬼気迫る表情で、手を
洗い続ける。右手から、
何かを
振り払うかのように。
頼む。お願い。落ちてくれ。消えてくれ。右手についた
それは、
べったりとまとわりついて離れない。皮膚の
一部になったかの如く、
じわじわと染み込んで痣のように残ってしまうかの如く。
何度も湯を変え、右手を浸し、洗い流し続けた。するとそのうち、女の顔から焦りの色が薄れていき、
ふふふっと口角が上がり始める。長い間、湯に浸し
洗い続けられた
右手は、ふにゃふにゃとふやけた感じになって、不気味なほど
白っぽくなっていた。
濡れた右手を
ゆっくりと顔の前に挙げる。指の一本一本、指先から付け根まで、わずかな証拠も残さぬかのように、凝視する。手のひら手の甲、何度も
くるりくるりと返しながら、
あれが
何処にもとどまっていないことを確認する。
やった・・・。取れた!落ちた!あの
忌まわしい
出来事までもがなかったかのように、すべては
ざあっざあっと水に流され、渦に
巻かれて
呑み込まれていった。女はようやく、
ふうっと安堵のため息をもらし、肩の力を
すとんと抜いた。
ぎいっ。背後で、
何かが
軋む
音がする。緩んだ肩は、瞬時に
強ばり、背筋に
寒気が走った。いや、気のせいだ。そう、空耳だ。
ぎいぃ。ぎいぃぃっ。いや、
空耳ではない。軋む音は細く長く
続いている。戸締まりは完璧。窓はすべて閉まっている。風のいたずらではない。寝室の方から、
すうっと流れてくる空気を
感じた。
ぎいっ。ぎいぃぃぃぃぃぃっ。女はおそるおそる
顔をあげる。洗面台に映る姿を見て、悲鳴をあげそうになった。それをぐぐっと呑み込む。映っていたのは、
青白く浮かび上がる、己の顔であった。
ぎいぃぃぃぃぃぃぃぃっ。女の恐怖は
頂点に達した。体は
凍りついてぴくりとも動くことができない。ゆっくりとしかし確実に、背後の闇から
迫ってくる
何か。見たくない。だが見えない恐怖の方が
耐えられない。視線をそろりそろり、
右に流す。肩越しに、ゆっくりと
開かれる寝室の扉が
見えた。女が
振り向いた瞬間・・・!
で、で、
出 たあぁぁぁぁぁぁ。
師匠 が出たあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。
へっ?
師匠が
出たあ?あれっ?あれれれっ?
何で
師匠なの?
「
何してんのぉ?こんな真
夜中に・・・ 」
ちょっとだぶだぶのパジャマでよれよれ姿の
師匠。寝室のドアを
ゆっくりと開けて、
のっそりと現れた。洗面所の明かりが眩しいのか、顔をしかめている。
「 な、な、
何をしているのと言われましても。師匠こそ、な、な、
何? 」
と、慌てふためきうろたえて、訳のわからん返答をする
弟子。「 何って・・・。水を
ジャブジャブ流して
何かを
洗っているからさあ・・・ 」
時計の
針は、午前2時から3時のどこか。新聞屋さんのバイクの音が、そろそろ聞こえてきそうな時間である。寝室は洗面所のすぐ横にあって、そこで
がちゃがちゃ何かをやっているとしたら、
大迷惑な話である。
「 あのその・・・えーと、手に
あろんあるふぁ なるものがついちゃいまして 」
「 あろん・・・。ふあぁぁっ? あるふぁぁぁぁ? 」
あくび混じりの師匠。まだ事態を把握仕切れていない。
「 いやそのあのですね。瞬間接着剤の
アロンアルファがですね・・・ 」
師匠、ようやくここで
覚 醒す。
「 ・・・
あの アロンアルファかっ!また何でこんな
夜 中に 」
何でと言われましても、話せば
長く
深い話になりまして。それでもよろしい?
その夜、湯船に
ゆったりとつかっていた私は、
こんな思考を巡らしていた。
またお茶碗の口を欠いちゃったなあ。どうしてこうも手がつるるるるんって滑るんだろう。前にも湯呑みやお皿もやっちゃったし(そのまま使っているけれど)。そういえば、欠片が残っていたなあ。ぴったりはまりそうだから、くっつけて使ってみるか。結婚するときに、せっかくオババが買ってくれたお茶碗だし。そういえば・・・いいものがあったぞ。瞬間接着!
アロンアルファがあったなあ。
お風呂から出て、
ざっと髪をタオルで拭き、水を飲むために台所へと向う。冷蔵庫をあけて、ペットボトルを出し、湯呑みに水を注いでいると、目に入ってしまったのだ、
お茶碗が。
「 ・・・
今、つけちゃうかな。朝になると面倒臭くてやらないかもしれないし 」
丑三つ時。かえって目が覚めてしまい、いそいそと片付けものをしたり、ふきふきとお掃除をすることがよくある私。その勢いで、お茶碗を直しちゃえと思ってしまったのが、運の
尽き。
まさかあんなことになろうとは。
紙袋から
ごそごそとアロンアルファを取り出し、説明書を読む。ふむふむ、先にスーパー液を塗って乾かし、その後にアロンアルファを塗ってつければいいのだな。では、いざ。
おや?出ない。空っぽなのかな?容器を
押しても、接着剤が出てこない。中身はどうやら入っている様子。きっと容器の口の部分が
固まっちゃったのだろうな。とりあえず、
ぎゅうっと押せば出てくるかなあ。
ぎゅう。ぎゅう。ぎゅううううっ。あっ。出た出た。やっぱり固まっていたのね。道理で出にくかったわけだわぁ。ピキピキピキ。ミシミシミシ。ん?何か容器から変な音がするけど。たらんたらんたらん。人間、驚愕の事態に出くわすと、思考が段階を
踏 むことがよくある。
まさか→アロンアルファが→手についちゃった→こりゃあ大変だ。右手人差し
指中
指薬
指、見事に三本。アロンアルファまみれ。
「 うわっうわっ
うわっ !!! 」
説明書を左手につかみ、オリンピックの聖火ランナーのように右手を高く
掲げながら、姿勢を
正して廊下を
駆け抜け洗面所へ。まずは、「水で洗い
流す」ことが頭に浮かんだからだ。
「皮フを
接着したとき」→「アロンアルファ
専用リムーバーはがし隊」を使う。
そ、そんなもんあるかっ!「お
湯の中で時間をかけてもみほぐしながら
はがす」
そ、それだぁ!それしかないっ!というわけで、
振り出しに
戻 る。
いやあこわかったですねぇ。おもしろかったですねぇ。瞬間接着剤、さすがに
よくできている。
あっという間に皮膚に
密着して、容易には取れない。お湯でふやかし、もみほぐして
地道にこそげ取る。
自転車と自動車がくっついたCMを見たことがあるけれど、あれもあながち、ウソじゃないなあと
妙に感心をしながら。
そういえば、私にはアロンアルファ
前科があった。子どもの頃、おもしろがってアロンアルファをいじっていたら、なんと、
まつげについちゃって大騒ぎ。その時もお湯で地道に落したような気がする。豆すけに「
三歩歩くと
忘れる」と注意しているけれど(いや、一歩かな)、私もそうたいして違いはなさそうだ。
まさかのまさか、そのまさか。
日常には、まさかの
落とし穴が、あっちこっちに潜んでいるのだ。
オオコワイ。コワイまさかもあるけれど、
シアワセなまさかもあるわけで。
幸 せなまさかのお話、まさかの南仏旅。続く続く、まだまだ続く。
monchouchouのお料理教室で、よく耳にした
オルガというマダムの名前。
数カ国語を操る、とても頭のいい女性。人を喜ばせることが上手な女性。美味しいお料理をたくさん知っている女性。一度
会ってみたかった、素敵なマダム。
昼間、アヴィニヨンの
レアル市場で買い物。仕入れた
食材で美味しい夕ごはんを作りましょう!ということになった。オルガが営む
シャンブルドット・ラナスタジーĽAnastasyでは、夕食は頼めば作ってくれるそうだ。今回は、料理を作る様子を見学させてもらえることになった。
部屋の真ん中にある、大きなキッチンに
集合!

オルガの「南仏家庭料理」教室の
始まり。
まずは、前菜の下ごしらえから。

材料はフェンネルなどのハーブとサーモン。
ミキサーに、ほいほいっと材料を入れて。

あとはスイッチをぽんっ。
お醤油とオリーブオイルの相性は最高!

フランスでは、お醤油と言えば「キッコーマン」。
ミキサー大活躍!

お皿に敷き詰めたルッコラにのせれば、完成。
お次はメインの仕込み。

登場したのは、ラム肉のショルダー(肩肉)。
スパイスをたっぷり入れて。

こんがりと焼き色をつける。
一度お肉を取り出して、肉汁でソース作り。

旨味が詰まっているぞ!
またまたハーブや調味料を入れて、味を調整。

お肉をお鍋に戻し、蓋をして、しばし待とう。
ソースの仕上げに、生のアプリコット。

どんな一皿になるのだろう。食べるのが楽しみだ。
タイルの色が印象的な台所。

壁にかけられている鍋の列、いいなあ。
一見、無造作に置かれている道具たち。

どれもこれも、手に馴染んでいそう。
さてと、もうひとつ。タプナードも作っちゃう。

一度食べたら虜になってしまうのだ。
オルガがオリーブの入ったミキサーを指さしながら、
何か言っている。
「 時々、オリーブの種が入っていることがあるのよ、頭に来ちゃうわ 」
と、先生が通訳してくれた。せっかく種抜きオリーブを買ったはずなのに、たまに種が入ったものが
紛れ込んでいるらしい。種がガリッと刃にあたって、困ったぞということだろうか。
料理の仕込みは
終了。夕ごはんの食卓を囲むまで、
アペリティフを楽しもう。
アペリティフとは、
「 食卓に着く前に、食前酒と何か軽くつまみながら、
ゆったり楽しむ時間 」
ということらしい。
だから、アペリティフでいただいたものは、食卓には持ち込まない。美味しいものだからついつい、メインの後にでもお酒をいただきながら、また(だらだらと)食べたいなあと思ったりしたのだが、そういうことはしない(すみません)。
待っていました、ロゼワイン。

手前の、ちょっと和を感じる器には、マルシェで買ったオリーブ。
先生によると、南仏ではロゼがよく飲まれるとのこと。口当たりがよくてクイクイッと飲んでしまうのだが、二日酔いは白・赤よりも強いという、
危険なワイン。
ソーシーソン。

ソーセージというよりは、サラミに近い。
フガス。これは、生地がデニッシュのような感じ。

オリーブ、鴨のコンフィ、胡椒などが入っている。
monchouchouでも習ったフガス。自分の好みで自由自在、たっぷり具を入れて焼いたパン。一度食べたらきっと、誰もが好きになる。
食べ出したら止まらない、タプナード。

ロゼと同じく、危険過ぎる・・・。
カリカリに焼いたパンを添えて。

たっぷりつけて、いただきます。
タプナードの材料のひとつであるケッパーのことを「タッペーノ」という。まあ、それがどうしてこうしてああなって(その辺は言葉の壁があって、私にはよく理解できなかった)、このペーストをタプナードと呼ぶことになったと、オルガは話してくれたような・・・。
monchouchouで習ったところによれば、タプナードとは「プロヴァンス地方の伝統的な料理」で、「オリーブのペースト」の総称とも言える。「その中身は千差満別」で、オルガも自分の好みにあわせて、作っているようだった。
アペリティフはこの場所で。大きな長方形のテーブルにて。

この後ろが台所。仕切りのない開かれた空間。人が集うには最適だ。
ロゼが入ったグラスを片手に、お庭に出てみよう。

いつまでも明るい、南仏の夜。さらさらと乾いた風が心地よい。
こりゃあ、ワインが旨いはずだ。さ あ、そろそろごはんができましたよ。
大きな
円卓に集ったのは、泊まっていたアメリカ人の女性弁護士さんお二人、オルガとビッケ(旦那さん、ビッケは愛称)、そして私たち。
まずは
前菜から。鮭のタルタル。

これはこれは!簡単でとっても美味しい。素晴らしい。
鮭のタルタルには、生サーモン+スモークサーモン、生だけ、スモークだけといった
組み合わせがあるそうだ。ルッコラとの相性は最高。
monchouchouで習った
carpaccio de thon(マグロのカルパッチョ)を思い出す。それといい、これといい、「困ったときはこれ!」という私のお
助けメニューになった。師匠もとりあえず、文句を言わずに食べているし。
メイン。子羊とフレッシュアプリコットのタジンヌ。

ラム独特の風味とアプリコットのほのかな甘味・酸味がよく合う。
数時間煮込まれた子羊のお肉は、とても柔らか。味付けは
シンプル。シンプルでありながら、一口食べる度にじわじわと美味しさが増してくる。隠れたいい仕事をしているのが、
ハーブ&スパイス。
記憶に残る一皿だ。
先生によると、普段はあまりお肉を食べないそうだ(年齢のせいもあるが)。今回は、日本からやって来た「大切」なお客様のために、
最高のおもてなしを用意してくれたとのこと。
メインの後、デザートの前に
フロマージュ。

これもあれもとおねだりして、マルシェで買ってくれたもの。
かなりお腹いっぱいで、チーズの入る余地がなし。
朝ごはんに回してもらう。
チーズは好きだが、知識は
ゼロに等しい私。何回聞いても、横文字の名前が覚えられん。間違っていたら、
にやりと笑って見逃して。
器を挟んで左奥と手前がシェーブル(羊)。右奥がブリー(牛)。器に入っているのは、サン マルスラン(フェルシュラン??牛)で、とろけるような食感と濃厚な風味。どれもこれも美味しい。日本で食べているチーズとは全く違う(値段も安い。日本ではなかなか気軽に買えないし)。こんな美味しいチーズがあったら、そりゃあ、ワインやパンが欲しくなるわけだ。
パン+チーズ+ワイン。日本で言うと、ごはん+漬け物+味噌汁という感覚か?デザートは、苺のカソナードかけ。

苺にささっとお砂糖をまぶしたもの。
近くの農家から買ってきたという、ごろごろ苺。この時期、ここで採れたものをいただくというのが、一番のご馳走だ。口の中もお腹も、
すっきりさっぱり。
オルガは、お客様を楽しませようといろいろな話題を提供してくれる。先生が時折、日本語に訳してくれたので(ありがたやぁ)、粗筋は理解できた。もちろん、外国語は一切訳わからんちんぷんかんぷんを通してきた私には、細かなところはわからないけれど。
それでも、心地よかったなあ。見知らぬ者同志、食卓を囲み、グラスを傾け、料理を分け合い、笑って話して、
共有するわずかな時間。
砂漠の中の
一粒の砂のような、
ちっぽけな奇跡。そんな奇跡に出会えたことに
感謝し、喜ぶべし。
い ろいろな話題が飛び交っている最中、
私は海外旅行が
はじめてだということを
耳にしたアメリカ人の女性弁護士さん。私に向って、
「
Congratulation!! 」
祝福の言葉を贈ってくれたのだ。
日本人には、まず、出ない言葉だろうなあ。しかも、にこやかにというよりは、
「 うんっ!それはいい!それは素晴らしい! 」
という表情をしていたのだ。
「 そいつはめでてえっ!いいぞおっ、いいぞおっ 」
と
ぽんっと膝を打つような、手を
パンパンッと叩いてこすりあわせるような、そんな感じだったなあ。
さあ、まだまだ、
めでたい旅は続いていく。
この翌日は、オルガに別れを告げてアヴィニヨンを後にする。リュベロン山脈を眺めながら、小さな美しき村を巡り、ルールマランへ向う。
ラナスタジーを発つ、その
前に。

素晴らしき朝ごはんのお
話を。
それはまた
後ほど。
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